人生におけるターニングポイント
外資系企業に勤める夫とともにドイツに赴任する暮らしをしていました。1991年のベルリンの壁崩壊の時もドイツ現地のテレビによって歴史が大きくかわる時を国境の街、バイエルン州のBurghausenで迎えました。

Leonhard NiederwimmerによるPixabayからの画像
サバイバルドイツ語
ドイツ語は片言だった私ですが、英語も同じくらい片言。スーパーでも日本のようにすべてパックになっているわけではないので、お肉屋さんとはやり取りが発生いたします。「こんな料理を作りたい」という写真を持って行ったり、「このシンケンを全種類で500グラムほしい」は身振り手振り。車免許は国際ライセンスをとっていたのですが、運転もウインカーではなくワイパーが動いたり、凍った道路を運転するために車をわざとスリップさせてコントロールする練習をしたり何事にも挑戦し続けてきました。どんな時にも言葉に不自由はありましたが、言葉以外で伝わることがたくさんあることも身をもって経験しました。
お茶会での一言
ドイツの方々は気軽にお茶会をしていて、わたしも近所のセバスチャンのママに呼ばれてお茶会に参加していました。政治の話や哲学の話にはついていくのは大変でしたが、その中でよく自分自身のキャリアについてお話される方が多かったのです。自分の役割といったところでしょうか・・・そんな時にある女性から「ゆうこは妻としての役割とお母さんとしての役割を果たしているところだけど、あなたの社会的役割についてどう思っている?」と聞かれたのです。まったく答えられませんでした。考えたこともない質問だったからです。この一言が翌日からの私の行動を大きく変えます。
ターニングポイント
当時はインターネットは確かにありましたが、社会的役割についてネットで調べるという発想にはならず、自分が社会にとって何ができるのかと考え、自分ができることから始めてみようと思ったのです。上の子が通う現地校では、国際文化を学ぶ週間が始まっており、日本の文化について私が皆に伝えられることがあると思ったのです。Burghausenには日本人の大人は私も入れて4名。この小学校ではたった一人の日本人児童でした。日頃から子どもが学校に持参していたパウゼの時間(授業と授業の合間の少し長い休み時間)に持参していた日本的な軽食に毎日興味をもっていた子供たち。そこで日本から持参していた「ちらし寿司」の元を使って四季の食べ物を紹介して味わっていただきました。ここが第一歩踏み出した出来事です。
教員免許をいかして、困りごとが解決
Burghausenは一番近い大きな都市がミュンヘンでした。およそ120キロありましたが、週末はそのミュンヘンの日本語補習校に通いました。当時は日本語学校もあり、この補習校は文部科学省の管轄外にあり、こどもたちへの学習をサポートする先生を探すのは大変でした。教育実習ではプラネタリウムの再現や体験型の授業をどんどん提案して教育の道に対してポジティブだった自分を思い出し、補習校で困っていることを解決するのが私の役割であると思い、子どもたちをサポートすることを決意したのです。30歳の決断でした。